昭和四十五年 六月十一日                            朝の御理解  第七十一節                     ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこうをして帰れ。夜夜中どいうことないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者やひよう取りはでたくるわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参ってくるわけにできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。                                                               果たして、えー..お互いが毎日ここへは、信心の稽古に来ると言うような、気持ちで通うて来る人が、どのくらい有るだろうか。ここへは信心の稽古に来る。今日はどんな稽古をさせて頂くだろうか。今日はどんな事を教えて頂くだろうかとと言う事を、心に願わせて頂いて、そして それを頂いて そしていよいよ実験し 実証して行くと と云う事になったら もうちっと お互いの信心が進まなければならない。そんな風に思うですね。ここへは 信心の稽古に来る所...ね。                        昨日、福岡から毎日日参してくる若い嫁さんがあります。姑親であるお母さんと大変 仲が良くない。最近、具合が悪くて病院に入院しておられるね。ですから まあ、もう とに角 家のお母さんと、自分という者は..ん..まあ いうなら仇同士の生まれ代りやなかろうかと思うように仲が良くない。だから もう心からお母さんと慕う気持ちもぜんぜんなかったけれども、こちらへお参りをさせて頂いて 段々お話させて頂くようになりましたら...ね、どうでも お母さんに自分のこの思いを解って貰いたいと念願するように成りましたと、そして、毎日それを実験させて頂いています。けれども良い答えは、 一向に出てまいりません。こちらがどんなに真心と思うてしても、尽くしても 例えば こうやって、金光様にお参りさせて頂いて御神米を頂いて帰って、この事もお願いさせて貰って「御神米頂いて来取るから、頂いてください。」と言うて「そげなもん 飲んで病気がなおるごたなら」ちて受付なさらん。だから今までの私ならば もう、それこそ知らんぞと言う事でしょうけども、これでは信心に成らんと思いますので どうぞ親に通づるような 信心で..心で..まあ..尽くさせてください。稽古させてください。つて 昨日、その事もお届けが有ったから、もう「信心とはそれだよ。」と言うて話した事でした..ね やはり実験と言う事を言われますけれども、実験 すぐ良いこと言われるとは限らないもう..ねぇ..本当に真心で通じない事はない。真が通じない時には そりゃ、こっちの真が欠けたんだと思うてと言われる。だから 繰り返し、繰り返しその事に実験をして居られて、今日も 又 失敗だった。今日も..ん..又 あ..云うならお母さんに喜んで貰うということも出来なかった。というよういにね..ん..まあ がっかりするようだけれども 一つもがっかりしない..ねぇ それこそ あの( ? )の通りじゃないけれどもね。  柳の( ? )に蛙が飛びついておる あれのように念願を賭けて信心の稽古をさせて頂いておる。今日も、そういう思いで稽古させて頂きたいとこういうのです。だからね、一つの事を そのくらいに、ここに稽古に来るんだ。はあ..自分..はあ..これじゃ まだ御神に通じないはずだと、これじゃ御神様 解ってくださらないはずだと。と言う所にお陰を心を置きますと 結局自分自身の心を もっと..もっと綺麗に しかも広く、豊かに、大きゅうならにゃならんと言う事が分かります。                   ここには信心の稽古に来る所ですけども、ここにはお陰を頂きにくる所というものが、やはり 心を占めて居りますから なかなか 稽古が稽古にならなんのじゃないかと思うです。これ 本気で信心の稽古ということになったら、そりゃもう本当に、もう楽しゅうなって 有り難うなってね。しかも その信心の有り難い いうならば あー 心がですね人にも伝わって行かずには置かんと言う 働きになって来るのじゃないかとこう思うですね........                                    夕べ、お次月祭が終ってから、下がっておりましたら 熊本の松村さんがやって参りました。「今朝方から、その御神夢を頂いた」とこう言う。それが私まだ見た事がないけど食用ガエルというのがね居り..大きなカエルらしいですね..ね。それをこう料理すると 言うてくれて その..まあ..なんですかね まな板の上にこうあげとる。そしたらね、 その食用ガエルがものを言う。「助けてください 助けて下さい」と言う。      はあ..こりゃほんと..蛙ちゃあ もう親先生の一番嫌いなものだがこれを自分が、ろうろうとしておる。こりゃ助けにゃいくまいと思うたら その蛙が「その代わりに、さんしょう魚を差し上げます。」と言たげな カエルが..そういうお夢でしたとこ言うのです。  皆さんどいう風に思われますか、なるほどカエルといやあ もう 私が一番 まあ嫌いと言うよりも怖いもの..ねぇ..それをね、助けて下さいというね。ほなら助けようと思うと言う事は私は、その嫌いな物、怖い物を生かすと言う事だと思うですね。助けるという事は生かすという事なんだね。それを生かしたら 次には、その代わり[さんしょう魚]差し上げますとこう言う。サンシヨウ魚というのは、まあいやあ 珍しい珍魚と言われるぐらいに珍しい魚です。大変なんか薬に成るそうですね..え..              例えば 自分の嫌な物 たとえば 今お金に不自由しとる人はいうなら もう、本当に貧乏は嫌だと思うでしょう。早ようこの貧乏から逃れたいと思うでしょう。思いやです 身震いするごと貧乏はいやですと..ねぇ..そんならその貧乏がです。私を助けて下さいと まあ言うたと思うて御覧なさい..ね、助けてやろうと云う気になるという事は、 その貧乏を生かすという事だと私は思うんです。これは貧乏だけのことではありません。私共は感じておる様々な 難儀そのものを生かすことが信心だというのですね。      お母さんと仲が悪い だからそれをです信心の稽古の対象として どうぞ生かさせてください。お母さんに私の思いが分かるね、通じる稽古させてくださいと言うて日々稽古しておることは そのお母さんを生かすことになり そのお母さんとの仲が悪ければ悪いほどね、それに取り組む所の姿勢というものは、腹を決めての姿勢にならなきゃならないということ信心とはそれですよとね・・そうして稽古が出来たそのあかつきに 分からせて頂くことはね。本当に一切が神愛であったということでございます、ね。私はねその事に取組んでの稽古。自分がそれぞれ 例えば願いを持っておる。又は難儀を感じておる。    その願い事をいうならば 信心のどうぞお願いします お願いしますと言うだけでなくてその願い事を、通してその事を生かしていくという生き方にならなければ、徳にはならないし、そしてその暁 あー あれは神愛だった。 あのことのお陰で一段信心が進めさせてもろうた。解らせてもろうた。豊かにもなった。大きくもなったと言う事になるのじゃないでしょうか。只 助けて下さいだけではね、只助けて頂いたしましたにしても..ね大きくなる事も いうならば 信心の稽古にはなりません。              私は、今日は..ね..ぇ..一切が神愛とここで言われますがね、一切が修行という事を 今日は、皆さんに解って頂きたいと思うです。教祖様はね、それを言葉を変えて.は.ねっ一生が修行じゃとおっしゃったんです。だから一生という事は 私共一生 その全部がという事。【日に日に 生きるが信心】とも教えられた。日に日に生きると言う事は..ねぇ 日に日に 生きる為の修行がいるという事ということなんです。          修行という事をね 苦しい事やら 困った事やらだけが修行じゃない。もう 一切が修行だと頂く時、初めて 一切が神愛と実感として解る時であるとこう思います。     私は、言葉には出した事はございませんでしたけれども、私の まあ 信心を振り返って見て思わせて頂く事は..ね 「一切が修行として受けてきたなあ」と言う事でございます だから、私の前にはもう一切が神愛だという風に解ってきた...ね。        皆さん、今日からはね もう一切が、一切が修行です。ご飯を頂く事も修行です...ねぇお芝居を見に行く事も修行です。テレビを見ることも修行です。それを修行として頂くから そこから必ず そこから閏うものがあるんです。修行にはお陰が付き物です..ねぇ 一切が修行です。その 言うならば取り組み方がです。今日、皆さんに聞いて頂こうとする..ね、もう稽古に始まって 稽古に終わるということです。             この御教えの最後にもですね、まあ 皆とここへ参って信心の稽古をしておけと仰っておられる..ね 初めに、ここへは信心の稽古を来る所と もう 稽古に始まって、稽古に終わるのです。稽古そのものは だから 色々有ります。面白い事から稽古させて頂く事もある。悲しいことから、稽古させて頂く事もあるね。苦しいことから、稽古させて頂く事もある..ねぇ 一切神愛という前にですね。一切修行ということになったら、絶対神愛いう事が解るでしょう。一切神愛が解った時 私共は本当の合楽世界が住める時です..ね 私は、もう 何十年間足袋を履きずくめですね。ある夏に足袋のお供えが来た。以来、足袋のお供えは続いておりますね。足袋を履くということは、冷たいから 寒いから履くのじゃない..ね。神様の前に出らせて頂く いうならば 御粗末御無礼にならんように いうならば 修行である。夏に足袋を履くということは あんまり嬉しい事ではない。 けれども、私はだから夏でも足袋をはずした事はありませんね。私は修行とはそれだと思うんです..ね。冷たいから足袋を履くというのじゃない。お蔭を頂かなければならんから修行すると言うのではないね。そのお蔭を頂かなければならんという事そのものをですね稽古の材料にさせて頂くということ..ね。ですからね そのいうならば まあよく言われますね。楽はせんと言う気になるとさせずに置かんと言う働きが生まれてくる。もうこれに徹底してご覧なさい。もうお蔭はいらんと言うても、お蔭の方が追いかけて来るです。 お蔭、お蔭というて お蔭ばっかり追いかけておるから、本当のお蔭にならんのです。これ どうでもね、信心の稽古の いうならば..そのお...稽古の芯という所をですね、稽古の芯所というものをそこに置かにゃいけんです。                それにはね 一生が修行です。一生が修行と言うと大変きついようだけどもです 修行ということはきついと言う事じゃないね その事を体得させて貰おう 覚えさせて貰おう いよいよ、熟練していく 上手になっていくということなんです。だから楽しいんです。有り難いんです..ね それを苦労と思うたり 只修行ということは苦しい事だという風な思い込みをするから はあ..もう一生が修行せなならんならということになってくるんです...ねぇ 皆さん今日からね、あの一切が修行これを一つあの実験してみてください...ね。だから、取り組み方が違う。テレビを見るでも見方が違う..ね 面白い思い        をする その面白い思いをする中に、それを修行として頂くから より教えられることが頂けれるんです..ね。一切が修行です..ね。その向こうに一切神愛ということがわかるんだと,私は言葉には出して言って来なかったけれども 私のここ三十年間の信心と言うものは確かに、一切が修行できたなあと言う事。今日、改めて思います。だから私の前には一切が神愛と言う事になったんだという事を思います。いうならば三十年間の私の信心修行の答えを今日は、皆さんに聞いて頂いてるようなもんです。正しくその通りです..ね もう眼が覚めたらもう修行が始まるのです..ね。終わるまでが修行です..ね。一切が修行と分からせてもろうて、一切が神愛ということをこれは、分からせて頂けれる信心。それには松村さんが頂いておるね 夢のお知らせじゃないけれども 一番嫌いなもの 一番怖いと思うておったもの その中にです。その怖いと思うておる事やらね。嫌いと思うておる事のその中に 難儀と思うておるその難儀の中にです。それを生かすという事。     助けて下さいと難儀が言うとる自分を生かしてくれと言うておる。その声を聞かせて頂く信心にならにゃだめよ...ね。そこから..それを..ほなら..その怖い物を生かそうと言う助けようと言う気になる。次には..ねその代わりに「サンショウ魚差し上げます。」とこう言う..ね。私はえー...サンショウ魚という事が信心のお徳だと思います..ねぇ。 ここには信心の稽古に来る所。さあっ 今日も信心の稽古にやらせて頂くぞと言う私は気持ちで 出てこなきゃならんと思う。そして..え..ね。御祈念、ご理解頂いた後に   今日は、どこをどう頂き どこをどう稽古の焦点にさせて頂くかと言う事を腹に決めてそして、変えなければいけない。只 お蔭、お蔭が心の中にいっぱいであると いうなら頂いたお蔭は 途中で落としてしまい。船にも車にも積めぬ程の神徳をあたら..途中で落としてしもうて、何べん聞いてもおんなしと言う事になって来る。           本気で稽古と言う事とになればです。今日、改めて思うんですけども お互いの信心がもちっとましな信心に進まなければならない。お蔭の世界もっと広がらなければ嘘だと言う風に思うです..ね。焦点が違う..ね。焦点を間違えず 本気で信心の稽古に...通わせて頂くお蔭を頂きたいですね....どうぞ